片隅でうたい続ける、わたしたちは。

詩人の秋野りょうと、写真家千川うた(仮)の女性二人のユニットで綴る、詩のブログです。

猿とぼくと餌

遊園地で、ぼくではとうていできないような芸当をしていたおさるさんがいたので、すごいなあとカメラを向けた。周りの人たちもおさるさんのかわいらしさに圧倒されて集まってきた。一袋百円の餌を与えると、もっと長く芸当をしてくれるというので、ぼくは何袋も買って投げ続けた。

日が暮れて、そこにはぼくと猿しかいなくなくなった。ボロボロの服を着た掃除夫がぼくのところに来て言った。「ほんとうはね、そんなに投げるもんじゃないんだ、それは」と。ぼくは、彼の言わんとしていることがよくわからなかった。猿はまだ笑顔を作ってキラキラぼくのことを待っているように見えた。夕日のせいかもしれなかった。

ほんとうははやく

ほんとうははやく、らくになりたいと

そちらがわにいって、きみとはなしでもしたいんだと

しかし、いまのぼくにはやるべきことができた

そのさきには、おおくの、かだいがまっている

そうはいっても、あめがふったり、すこしさむくなったり、

きあつがさがったりね、そういうときは、

ほんとうにしかたないんだ

ふりはらっても、どこかにきえてくれるもんじゃないから

うまいことてなずけて、くらしていくことしかできないよね

 

ぼくは ひとつ しごとをみつけられたから

もうしばらく こちらにいられるのだけれども

 

げつようびに、とうきょうのでんしゃはすぐにとまるよ

きみがいたときよりも、すぐに

ぼくは それが とてもかなしい

刹那は連なっていく

ひとりの人をひたむきに愛する時間こそが刹那だと思っていたが、刹那こそが時間とともに連なっていくのではないか。これを愛と呼んでよいのかよくわからない、まったく不毛なのかもしれないけれども。

 

「人生はらせん階段のようにできているんだよ」と、小さなころに誰かが言った。DNAのらせん構造のように、私たちの実に退廃的な時間が連なってきているのならば。これは愛ではない、なぜならば引きずられて日常が歪んでいくことが一切ないからだ。

希死というもの

不健康な生活を続けていると、あるとき、ぱっと何か、季節だの気温だの気圧だのの変化が現れ、それがトリガーとなって寝込んでしまう。ふわふわ空気中に漂えていたものが、ひどくつよい重力に引っぱられて地底まで潜ってしまうのではないか、と思うぐらいだ。希死というものは病理の面から言っても仕方がない。希死は誰かを否定しているわけではない。特に、私を産んだ母親のことを。このもやもやとした黒い雲のようなものを追い払いたいけれども、常にこれらと生きていかねばならないのだと思う。まったくもって憂鬱なことだ。呼吸をしてごはんを食べていれば生きのびることもできよう。

ドン・ジョバンニのように自由奔放な生と性は

ドン・ジョバンニが彼の食卓へ続く扉を開けたとき、彼が彼自身の死をまったく想像していなかったように、自由奔放な生は常に死を内包している。性もまた、死を内包しているのだろう、そこから新しい命が生まれるのだ。もちろん、誰もが死に一歩ずつ近づいているのだが。広い世界、あるいは小さなものへの愛をもって生きることだ。神様を信じない人ならば、誰のためでもなく、自分のために生きることだ。それは、だいぶ難しい。

さよなら小鳥たち

さよなら小鳥たち

私の指先を小さな爪でつかんでいた小鳥たち

私の胎内からメロディーを吸い取って、はるか遠くへ羽ばたいていった小鳥たち

 

 私は森から出られない

 私は森から出られない

 

さよなら小鳥たち

私の体にふわりとした触感と、あたたかな温度の記憶を残して

吸い取られた胎内は、既に私の体ではないように感じる

 

 私は森から出られない

 私は森から出られない

 

さよなら小鳥たち

私の子宮をついばみ、どこか遠くへ運んで、棄ててきてはくれないか。

赤黒くグロテスクなそれを、静かな雨と一緒に街に降らせてくれないか。

 

 私は森から出られない

 私は森から出られない

 

さよなら小鳥たち

いつも、いつも、永遠のさよならと思って送り出すのだ

けれども、あの愛が塊になったようなモノは、

また戻ってきてほしい、私の指先をついばめる距離まで

 

 私は森から出られない

 私は森から出られない

 

 誰か私をこの森から出してください