片隅でうたい続ける、わたしたちは。

詩人の秋野りょうと、写真家千川うた(仮)の女性二人のユニットで綴る、詩のブログです。

贖罪しながら、生きる

私にとって生きることとは既に、誰かに罪を償うための、いわば苦行であって、性という観念も誰かを無理矢理納得させるための手段でしかなかった。荒れ地にたったひとりになった敗残兵のように、私は裸で戦っていた。あまり、助けは呼べなかった。実際のところ、私の中ではそれはちゃんと筋が通っていることなのだけれども、誰にも理解されないので沈黙するほかにない。自らの生死や性、暴力でもって何か重要な問題を解決するということは酷く原始的で、そんなことはとうに滅びているべきなのだが。書くことさえもプロバガンダではないのか誰かを煽動しているのではないのか何のために書いているのかお金のためだけに書き続けるのかインターネットでバズればいいのか自分のすべきことは一体何なのか、夜は眠れず、今日も食欲がない。何も食べたくないし食べられないからワサビがたっぷりとお椀のふちに塗りつけられた駅そばに唐辛子をたくさん振りかけて啜り、次にホームに来た電車に乗るだけ、生きることは刹那だ。しかし人から愛されるのであればどうにかこうにか、次の数年間を生きられるのではないか、と思う。どうか喩えば、棄てられませんようになどと、私が前時代的な女性みたいに祈りませんように。人と、人並みにたまに愛し合う暮らしを送る権利も、もしかして私には残されているのではないだろうか。そこでもしも私が、権利を主張して良いのならば。自虐して自嘲してこの関係性が愛ではないなどと決めていたのはほかならぬ私だけだったのではないだろうか。自分が思うよりも私は愛されているので、もう少しの間、生きていてもよいのではないか。もちろんたとえ愛されていなくても生き続けなければいけない、それは苦行だ。けれども、そうやって生き抜く中には光もあるのではないだろうか。